(一話目から約一年後の夏休み) 暑い。 「あーつーいー……」 声に出した所で暑さが解消される訳もない。むしろ声に出した分だけ気だるさが増した気がする。 毎回そう思っているのに、口に出さずにはいられないのは何故だ。 「あー……」 呻きながら机に突っ伏す。胸の下でプリントが折れ曲がった音が聞こえた。知らない知らない。私は何も悪くない。 窓から入ってくるのは運動部の掛け声くらいで、涼しい風は一向に入ってきやしない。 ……もしかしたら、少しは入って来ようと努力しているのかもしれない。だが、そんな本の少しの努力など、カーテンによって陽光共々シャットアウトだ。むしろ陽光の方が強い。さすが、北風と太陽の話はだてじゃないようだ。根性なしめ。 「うーだーるー……」 誰も教室にいないのをいいことに、机に頭を預けて四肢を手放す。 季節は語るまでもなく夏である。 そんでもって、本来なら今日は『休日』である。しかも『長期連休』である。 ―――そう、今は夏季長期休暇。親しみやすい名称で言うなら『夏休み』。 夏休みなんだよう! 私は泣きたくなった。 なんで夏休みに部活動でもなくわざわざ学校にやってこなきゃならないんだ! 机に頬を付けながら、そこにある真っ白い洋紙を睨みつける。 見ての通り『補習』の真っ最中です。 全く、遊び盛りの中学生に第二外国語ってひどくない? 英語はかろうじて赤点は免れたんだから、許してくれたっていいじゃない。 ……ミーンミーンミー……ジジジ…… やばい、脳内を三点リーダーが埋め始めた。 このままじゃ禁じられたワードを口走ってしまいそうだ。 「わかるわけねー…」 『禁断の言葉』を思い浮かべた瞬間に、発音してしまった。 ああ、それは言ってはいけない約束なのに! 『わかるわけない』なんて言ってはいけない!確かにわからないけれど、授業で先生が生徒に等しく教えた範囲なのだから、『わからない』くらいにしとこうよ自分! くそ、それと言うのも…… 「田沼のばーか」 頭で考えるより先に悪口が飛び出す。しかも個人名称を含めてだ。 田沼と言うのは、去年のクラスメイトで、顔は中の中、背は私より高く、運動もまあできる方だ。成績も中の中。取り立てて目立つこともないが、なんでもある程度はそつなくこなす男である。 ……まあ少しばかり天然タラシ要素が入った男だと言うことはこの前わかったが。 だってさー、ホワイトデーも誕生日も笑顔でプレゼントくれたらさ、普通勘違いするよね。するよー。するさね。するってば! 中途半端に仲が良かったのがまずかった。ほんと。 お察しの通り、私はフラれたのです。 もう三年だし、夏休み前にはなんとか!と焦ったのもまずかった。 よりによって期末試験前……。 勝負賭けすぎだよ私……。 独白に更に凹んでしまい、思わず頭を抱える。 そんなこんなで勉強が手につかず、一番苦手な(仲の良いクラスメイトは今回に限って誰も選択していない)フランス語が壊滅的に身に入らず……後悔しても後の祭りってわけですわ。 みんな一、二年の内に選択していて、早くも諦めたんだそうだ。 うう、全然気にしてなかったよ……。しかしそれなら教えてくれてもいいじゃん……。 「うおっ!」 誰かの驚いた声に、ビクッと私は体を起こした。 だ、誰だ! 私は声と視線の方向を向いた。 なんてことだ。既にその人は教室内にいて、机の中に手を突っ込んでいる形でしゃがんで……驚いた顔をして私を見ている。 気付かなかった! 私一番廊下側の列に座っていたのに! 「じゃねーか。なにしてんの、今は夏休みだろぃ?」 独特な語尾を持つ赤毛のテニス部男子。 運動部ってヤンキーばかりだなあ、と数人ばかりの知り合いを見て思う。彼もそのうちの一人。名前は丸井ブン太。冗談みたいな名前だが、本名である。 「私だって夏休みに学校で勉強なんてしたくなかったよ」 かき混ぜてぐしゃぐしゃになった髪を直しながら、彼に訴える。思わず唇がとんがってしまった。 私の様子を見て、察しの良い彼は合点がいった様で、一つ頷き苦笑いする。 「あー、そうか、補習か。うちの二年もそれで練習来てねぇのか。ご愁傷様」 南無、と手を合わされても嬉しくもなんともない。 「そう思うんだったら手伝ってよ」 「ばか。手伝ったら補習の意味がないだろぃ」 「変なとこで真面目なんだね、丸井くんは」 「変じゃねぇ、俺は元々真面目なんだよ。補習も受けたことねぇしよ」 少しも鼻に掛けずに言うから、余計にイラッとした。 「じゃあいーじゃん、こんなの楽勝でしょー、手伝ってよー」 「駄目だ。第一もうすぐ休憩が終わんだよ」 「ケチ! なにさ! 女の子が頭下げてんのに! 男なんてどいつもこいつもええかっこしいのむっつり助平なんだ!」 うわーん! と机に突っ伏す私に、丸井くんがドン引きしてる気配がする。 でもそんなの気にしない。今の私にとって重要なのは、『男子』が『私につれなくした』、この二点。 「お、おい、」 戸惑った丸井くんの声が聞こえ、私は両手をバンっと机に叩きつけて、その反動で顔を上げる。 「ブンちゃん、何しとんじゃ?忙んと」 「うるさーいっ!」 顔を上げ私が叫んだ瞬間に、銀に染まったふんわりした髪が、私のやや斜め前の、廊下側の窓を開けて覗いた。 突然やってきた状況に銀髪が目を丸くしているのが分かった。 分かったが、こんなことで引き下がるなんて女がすたる! 「男なんか敵だ! お前なんか敵だ!」 ビシッと丸井くんに指差して叫ぶ。丸井くんは銃でも突き付けられたように、両手をホールドアップした。 「お前も敵だーっ!」 斜め前のそいつも指差してやった。 銀髪の彼は一瞬目を丸くしたあと、白けたように半眼になり、指した指ごと手の平で掴まれ、ぐいーっと矛先を明後日に向けさせられた。 え。な、なんだこのリアクション。 「丸井、すまんの。参謀に少し遅れるってゆっといてくれんか」 「え、ああ」 普通の落ち着いた調子で丸井くんに言いながら、そいつは窓からひょいっと教室に入り込んできた。 こらっ、そこは入口じゃないぞ! ……と、何時もなら言うところなのだけども……、な、なんか雅治の様子がおかしい。 「あのー、仁王さん? 雅治さま? もしかしなくても怒ってらっしゃいます?」 「いいから座っとれ。あ、副部長には上手く誤魔化しといてくれ、とも伝えておいてくれんかの」 それまでぼんやりしていた丸井くんは(いや、私にドン引きしてただけかもしれないが)、雅治の声に我に帰ると「あ、ああ」と歯切れの悪い返事をして、教室を駆け足で出ていった。 「ま、雅治〜? アンタはいいの? 全国大会もうすぐなんでしょ?」 ヘラヘラと機嫌を伺いながら彼を見る。 が、雅治は丸井くんの去って行った方角を凝視したまま、 「……なんじゃ、もうか」 と、少し寂しそうな声を落とした。 雅治がこちらを向いて居たから聞こえた微かな呟き。何が『もう』なのかはわからないので、 「はいー? なんかゆった?」 と耳に手を当てて言ってみたら「なんもゆうとらん」と頭を叩かれた。痛い。 頭を押さえて睨むが、彼はそよ風程度にも気にせず、私の前の席の椅子を引いて、ドカッと横向きに座った。雅治は「あーだりぃ」とか言いながら、私の方を見ずに天井を見上げた。 「お前さん、なにしとんの」 話掛けられても当人がこちらを見ていないので、私は視線をウロウロさせ、なんとなく問題用紙に視線を下ろした。 「なにって……補習だよ……」 「教科は」 「……フランス語」 そうか、と言ったきり、雅治は黙ってしまった。 気まずくなった私は、カリカリとアルファベットの隙間を塗りつぶすことにした。 「お前さん、馬鹿じゃのう」 転んでしまった小さい子供に言うような、優しく暖かい貶し言葉が、上から降ってきた。 私は何のことか解らない振りをした。 雅治が知ってる筈はない。ギクッとしたら敗けだ。 「うるさいなあ」 これ以上用紙に落書きするのも、先生の小言が増えそうな気がして、私は机にグリグリと無駄に螺旋を書き始めた。 「でももっと馬鹿は田沼の奴じゃの」 「……う? ……な……ちょ、えええええ!?」 ギクッとしたら敗けだ、とか思っていたが、リアクション命な私には無理すぎる難題でした。っつーか、ピンポイント過ぎだって! 手にも力が入って、シャーペンの芯が折れた。顔に当たって痛い。 雅治はこっちを向いて、はんなりと笑む。優しい色合いを帯びた同情の表情。 そんな顔を友人にされたのは初めてで。 気づけば私の涙腺は独りでに決壊していた。 カーテンを引いてあるとはいえ、真昼の明るい教室。 私と雅治以外に人がいないので、彼に泣いているのを隠すことで出来なかった。 俯いて目を手のひらで覆い、歯をくいしばって嗚咽を噛み殺す。 ―――そーなの、馬鹿でしょ、しかも酷いんだよ、ねぇ聞いて! 叫びたいけど、流石にこの上そんな醜態は晒せない。 現状に何か言い訳したかったけど、口を開けばしゃっくりと共に変な声を上げそうで、ポロポロ溢れる涙を必死に拭い続けた。 「フランス語の教科書も辞書も出しとらんのぅ」 忘れたのか? と雅治が、いつもの調子で言ってくる。 私はえぐえぐ泣きながら、鞄の中から教科書と辞書とノートを出した。 「勉強しとらんから分からんのじゃろ」 人に聞く前に自分で調べんしゃい、と言って、私の体の下にある問題用紙を引っ張り出した。 「……流石に俺でも意味不明じゃ」 問題用紙は再び私の手元に返ってきた。 「…………のぅ」 ガリガリと雅治が頭を掻く音がする。困惑しているのか躊躇っているのか、よくわからない。 「……明後日な、夏祭りがあるじゃろ」 私は知ってるので、コクリと頷いた。 泣かせてくれておいて、完全に放置されていたので、私はただ泣くことが出来、幾らか苛立ちと悲しみが収まってきた。 でもまだ顔を上げることが出来ないので、雅治がどんな顔をしているのかわからない。 「二人で行かんかの?」 「は?」 さっきからずっと脈絡がないと思っていたが、何を言われたか解らなくて、口から変な疑問符が飛び出した。 「『は?』とは酷いの。気晴らしじゃ気晴らし。ちょっとだけ彼氏の振りしたる。夢みんしゃい」 おどけた口調でおどけた事を言うので、私は顔を上げて笑ってしまった。 泣きながらだったから、ブタの方がまだ可愛らしい笑い声になってしまったが。 「何を偉そうに。テニス三昧の日々にちょっとスパイスが欲しいんでしょ。いいよ、彼女の振りしたげる。夢みんしゃい」 語尾を真似て、私もとぼける。涙を拭いながらケタケタ笑うと、雅治が「酷い顔じゃのう」と苦笑いした。 そして、私の頭をポンポンと叩き、椅子から立ち上がる。 「帰ったらメールか電話するの」 「ん、おっけぃ」 ヒラヒラてを振りながら廊下に向かって歩いていく雅治の背中に声を掛ける。 ドアを潜るか潜らないかの辺りで、何か思い出したように彼は私を振り返った。 「なあ、冗談でも『敵だ』なんて言わんといて。は仲間だと、俺は思っとるんじゃ」 そう無表情でボソボソ言って、私の返事も待たずに、彼は去った。 久しぶりに見た無表情に、雅治らしくない数十分間を反芻し、暑さで殺られたか? と酷いことを考えた。 ・ ・ ・ ・ 柳は日陰に入りながら、チェックしてきた名簿を見直して、軽く眉間を解した。 名簿の中程。三年生の特定の人物の名前だけが、霞んでよく見えない。 (また視力が落ちたのか?そろそろ観念して眼鏡かコンタクトを付けるべきか……) それにしても、部分的に見えなくなるとは可笑しな話だ。病気を疑うべきなのかもしれない。 悶々と柳がそんなことを考えていると、 「おーい、柳」 丸井が彼を見つけ、小走りに駆け寄ってきた。 (丸井……) 柳は彼を見て少し考える。 (俺は誰かに丸井を呼びに行ってもらった……だが誰にだ?) あちぃー、と言いながら丸井が木陰に滑り込む。 「仁王がよ、遅れるから副部長誤魔化しといてってさ」 丸井にそう言われ、ハッと気付く。 (ニオウ……そう仁王だ。仁王に丸井を呼んできて貰うように頼んだ) 柳は丸井に「そうか」とだけ言った。 (仲間の名前を忘れるなんて、どうかしている) 詫びの印に、真田には上手く誤魔化してやろう、と柳は思った。 真田程ではないにしろ、柳も厳しいと思っていた丸井はあっさりと頷いた柳に内心首を傾げた。 が仁王の名前を呼ぶまで、その銀髪の男子の名前が丸井も思い出せなかった。 気まずくて、柳に断られたら代わりに真田に殴られよう、と決意をして来ただけに、少し拍子が抜けた。 しかし、すんなり話が通ったことに文句もないので、「んじゃ、そう言うわけで」と立ち去ろうとした。 用事があった柳は彼を呼び止め、記録を見せようと名簿に視線を落とした。 すると、霞んで見えなかった行は読めるようになっていて、どれがそうだったか柳にはもうわからなかった。 (一時的に目が霞んだのか。暑さにやられたのかもな…) そう思いながら、悟られないように、普段通りに丸井に接した。 (あなたが腐らないように) 2013/08/20 御狭霧 |