空気に潜む湿気が薄れ始めている。 呼吸が喉に纏わりついて巧く肺まで下りてくれない、夏特有のあの粘り気みたいなものが、さらさらと水に薄められて流れて行くような。 彼岸花が咲いている。 雲との距離の目算が開いて行く。 風が冷たくなり始める。 月が輝きを増している。 秋がすぐ足元の影に、潜んでいる。 * 放課後の三年C組には未だ生徒の姿が多く、けれど俺と同じで、その顔色は決して良くはない。ため息がそこここから聞こえる度、釣られて俺も嘆息をしてしまっていることに気付いたのは、机を前にしてプリントと睨みあう俺の席に、滝と忍足がやって来る直前だった。 「宍戸?」 「何か用か?」 座る俺を見下ろしながら、滝がこてんと首を傾げる。肩には鞄をかけて帰り支度を済ませているから何とも羨ましくなって、零した再びのため息は自分の不甲斐なさに対してだ。 「さんの公演、俺たちも行こうかなって思ったんだけど。……行けない感じ?」 「あー、もーっ、激ダサだぜ……」 喋る内に俺の手元を見て悟ったのだろう、滝が苦笑するから――やっぱり、自分が情けなく、がっくり肩を落として頭を抱えた。 氷帝学園中等部三年では、毎朝、曜日ごとに教科の違う小テストが行われている。目標の点数に届かなかったら、放課後残って再テスト。満点を取るまで何度も繰り返し、だ。恥ずかしながら俺はそこそこ常連であったりするから、この場で勉強をしながら教師が来るのを待っているのは、珍しいことではないのだけれど。 「数学か。お前なぁ、予定ある日ぐらいテスト勉強せぇって」 「してたっつーの、朝まで!」 忍足が呆れた声を出すのに、反射的に噛みついて、から、目を逸らして。 「……んで、テスト中に寝た」 「ごめん宍戸、フォローし切れない」 「いい加減三年やで、俺ら……」 「自分で一番分かってっから、そう言う目で俺を見るな!!」 ぎゃん、と大きな声を上げて。もう、本当に、激ダサとか、それ以上だ。自分自身への苛々と合わさって、プリントを上から何度見直しても全然頭に入って来ない。いつもはここまで駄目じゃないのに――って、そこまで考えて、“いつも”と今日は違うのだって気付く。 いつもなら、が、目の前で。 眉間に皺を寄せて、或いはからかい混じりの妙に楽しげな笑顔をしながら、解説をくれていたのだったか。 コーラス部の三年が引退公演をするのだと言うから、前日の練習を控えたに勉強を教えてくれと頼むことは出来なかった。いや、きっと頼んだら、毒吐きながら応えてくれたのだろうけれど、……俺だったら、三年間を懸けて来た部活の最後の舞台、万全の状態で臨みたいと思うから。 特別苦手な幾何の範囲をどうにか独力でこなそうとして――この様である。 「あ」 考えれば考えるほど俺は何やってんだって気分になってきて、ついに頭を抱えたまま机に額をぐりぐりとなすり付けた。自己嫌悪より先に勉強し、と忍足が正論を述べるのに被せて、短く大きな声を上げた人物は聞くだけで分かる。 振り返ってみれば、俺のすぐ後ろの席、つまりはの席に来るなり、一緒に勉強しよ、と言うだけ言って眠り始めたジローが顔を上げて、へにゃりとだらしのない笑顔を浮かべていた。だけれどその夢現の表情は、俺に向けられたものじゃない。手を振る先に視線をやれば、噂をすれば影と言う奴で。 「ちゃんだぁ。どーしたのー?」 「忘れ物取りに来たの。芥川くんも再テスト?」 「ん。宍戸と俺がさいてーてんだってー」 おそろい! と言いながら、ジローがブイサインをかましている。滝と忍足がやれやれと首を振る。俺はあまりにいたたまれなくなって、拗ねるような顔でぷいとそっぽを向いた。 ジローをどかして、が机の中から取り出したのは黒いエナメルの小さなポーチだった。髪ゴムだとかヘアピンだとかが入っているんだと、しょっちゅう見るから知っている。はチャックを開けて中を改めてからやっと、俺を視界に捉えた。 小テスト中に寝ちまった、って、朝、意を決して伝えて。 そう、ってクールに言うだけで、は何一つ、未だ責めてくれていないから。 「……馬鹿にするなら、好きにしろよ」 怒られるのも尤もだ、って、ぎゅっと指を握るのに、けれどもは呆れたように長い息を吐くだけだ。 「もう飽きたわ。宍戸がちゃんと勉強なんてしたって、どこかで躓くとは思ってたしね」 「回答欄一つずつズラして書いてしもたりなぁ」 「やってたね。確か社会だっけ、得意だって言ってるのに追試になって、跡部に凄く怒られてたの」 「う」 過去の失敗まで引き合いに出されちゃ、呻くぐらいしか出来ない。 それでも、――って、反論しようとした瞬間、あれ、と思った。 ――お前は俺のこと、責めて良いんだから。 ――そうでもしてくれなきゃ、俺のケジメがつかねぇよ。 ――悪かった。 言おうとした言葉を頭の中で反芻して、また、あれ? って、首を傾げる。 だって、別に約束してる訳でもないし、来てくれって頼まれた訳でもないのに。 不思議なことに、――自意識過剰なことにも。 俺が見に行けなくて悔しい、じゃなくて。 俺が行けないんじゃ、は残念がるだろうな、って。 「ま、精々頑張りなさい」 過ぎるほど穏やかに、はふわりと笑った。 違和感があるとか、無理した笑顔とか、そう言うんじゃないのだ、けれど。 だって、当然俺が見に来るモンだと、お前、考えてたろ? それが裏切られたら、そりゃあ、ショックとか寂しいとかじゃないにしても、残念だろ? お前は思ったこと何でも全部言って来るから、きっと自分でもまだ気付いてないんだろうけどさ。 俺が、お前の心の内を、読み間違えるはずがねぇだろ? 「再テストじゃない奴は出てけよー、席戻れー」 担任が教室に入って来て指示をするのに、教室のそこここから悲鳴が上がった。教卓でプリントの枚数を確認するうちのクラスの担任は、まだ若く熱意に溢れた、いわゆる熱血教師だ。真っ直ぐで、馬鹿正直で、そこが愛されるポイントではあるけれど、融通が効かない部分も多い。 「さん、俺らは聞きに行くからな。気張ってええ声聞かせてや」 「ありがと。もう始まるから、早めに来てちょうだい」 「え、なになに、ちゃんと遊びに行くの? 俺もー」 「はい、ジローは宍戸とお勉強ね」 教室を去るを追い掛けようとしたジローを押し付けられながら、――思えば、このタイミングで決断しておけば、俺はあんな目立つことをしなくても済んだのだ。 コーラス部を見に行きたいんだ、って素直に言っても、恐らくは再テストを免れることは出来ない。俺はそもそも嘘を吐くのが苦手なので、のっぴきならない事情があるんですと言い募るのも得策ではない。ならば正規の手段で、つまりは問題をさっさと解いてしまって合格を勝ち取るのも……断言しておこう、俺には無理だ。 小テストの時間は二十分。それで不合格なら、十分間の見直しと質問の時間が取られて、もう一度二十分。がいつ歌うのかは知らないけれど、コーラス部三年の人数はそう多くもなかったはずである、一人が五分歌うとして――計算しても意味はない、とにかく早く行くのに超したことはなく。 「ジロー、席帰れよ」 「んー……?」 の席でぐったりと眠っているジローを振り向いて、声をかける。目を擦るジローに、仕方ないなあって首を振る。白々しくなってないかって、心臓をどきどきさせながら。 ジローの腕を引っ掴んでずるずると、本人の席に連行してやる。教室の一番後ろの扉側まで。担任は苦笑しながら、芥川はまたか、って、俺の動きを待っている。大丈夫、大丈夫、周りのクラスメイトも、気にしている様子はない。 やっぱり、見に行かなきゃ駄目だ、って。 ちくしょう、あとほんの少しだけ、担任が来るより先に気付いてれば、エスケープ出来たのに。 ジローを席に座らせた瞬間、担任に向かって、スミマセン、って、ごくごく小声で一言。 教室から廊下へ、駆け出した。 * 登校してみれば宍戸がもう席にいて、あまつさえ数学のプリントを握り締めてぶつぶつ言っていたから、これはもしかして天変地異で突然休校になったりするかもなあって、思っていたのだ。その結果は何てことはない、宍戸が勝手にテスト中に眠って、予定調和に落ち付いたから、私の予感はさして当てにならないと実証されたに終わった。 確かに今回は問題がちょっと難しいところではあったけれど、私はそんなに数学が苦手って訳ではないので、とっとと回答欄を埋めてしまって、目の前で完全に机に突っ伏してしまっている宍戸の背中をぼんやりと見つめて終了の合図を待っている。顎をシャーペンで支えながら、こいつはほんとにどうしようもないなあって、頭が痛くなる。 起こしてやろうかな、とも、思わないでもなかったけれど。随分とぐっすり行っているようだし。 勉強した理由は、“の歌、聞きに行くからな”だったらしいので――まあ、そんなことなら、良いかな、って。折角だからと足を伸ばして椅子の底を下から蹴ってやるけれど、やっぱり宍戸は身動ぎひとつしない。 馬鹿だなあ。思わず笑う。 別に歌ぐらいなら幾らでも歌ってやるし、たかが中学生の道楽、大したものじゃないっていつも言ってるのに。 わざわざ苦手な勉強に挑みかかろうとした、その姿勢だけで、割と喜ばせて貰っているので。 ――元々あんたの学力になんて期待してないんだから、何一丁前にヘコんでるの。 もしも悔しがってたら言ってやろうって、考えていると退屈な待ち時間が楽しくなった。 「私、衣装に着替えてから行くから。二人とも、先行って」 「へえ、本格的なんだ」 「氷帝って形から入りたがるじゃない。その遺伝子よ」 違いない、と、滝くんと忍足くんを交えて三人で話した後、二人はステージの方へ、私は中庭へ。こっちを通り抜けた方が更衣室までは早いのだ。 案の定、奇跡は起こらなかったらしく、宍戸は再テスト組の一員だ。教室の机に忘れた髪ゴムを取りに行ったら、芥川くんをお供にして随分悔しそうにしていた。徹夜までして勉強したなら、うっかりしていなければ一度で合格出来るだろうし、もしかしたら私の番までには間に合うかもね――と慰めようかとも思ったけれど、なんだかそれは、私が宍戸が来るのを期待してたみたいに聞こえるかと考えたので止めておいた。 いいや、もちろん、来て欲しくは、あったけれど。 恋とか愛とか、そう言う、甘ったるい感情を孕んだものだって、誤解されたくないから。 僅かでも、友情と言う陳腐なこの関係に、変調の兆しを与えたくなかったから。 宍戸に友人として信頼されてるって、私が宍戸を認めてるって、実感する度、ひとの関係って言う不確実なものに不安が生まれて。 気付けば、喋る言葉を選ぶようになっている。 三年分の関係の積層なんて、泡を上げて、変わって、消える。 たとえば私が男だったなら、たとえば宍戸が女だったなら、こんなことを考えなくて良かったろうか。 中庭の下生えを踏み締めながら、足を止めて空を仰いだ。 太陽は高く眩しく、雲は薄く、空は青い。 付き合ってるの、とか、ほんとうに友達なの、とか。 言われる度に、このままでいられるのかなって、恐ろしくなるんだ。 中庭から見上げる空は、校舎によって四角く切り取られている。狭いなあ、と、なんとなく息を吐いて――俄かに、視界の隅っこに映っていた校舎の廊下が、騒がしくなったのが分かった。 怒鳴り声と、ちょっとした悲鳴みたいなの。窓から慌てる人が見えるから騒ぎの元は分かる。二階だ。何だろう、と首を伸ばして届くはずもない二階を覗こうと、して。 「!」 突然、当の二階の窓から、聞き慣れた声が名前を呼んで来たと思えば。 「宍戸!?」 焦った様子の男子生徒は、窓枠に足を掛けて、――首を、肩を、空中に乗り出して。 ――そこは二階だけど? 来い、とも、来るな、とも、言わずに走った。なにも考えてはいなかった。 着地点を予測する。一息、決意する間を開けて、宍戸の体が宙を飛ぶのが見える。高い位置で風に煽られた、カッターシャツの裾が大きく翻る。腕を広げる。宍戸の目が大きく驚愕に見開かれる。 ぽふん、と。 予想外に軽い音を立てて、宍戸は私のちょうど目の前に、着地した。 しばしの沈黙と、硬直。 広げたままの腕は行き場なく、やがて情けなく体の横に下ろされた。 あまりに間抜けな無言の時間が二人の間に漂っている。 校舎の方からこっちを見ている生徒たちが、あれこれ騒いでいる。 私と宍戸は見つめ合ったまま――どちらともなく、噴き出した。 「う、受け止めようと、したのかよ、、出来る訳ねぇじゃん」 「し、宍戸こそ、どっから降って来てんのよ。二階よ、二階」 「いや、ほら、あ、あれだ。お前の歌、聞きに行ってやらなきゃって、思って」 わなわなと唇を震わせながら、耐えようとして互い視線を逸らし合う。 だって校舎からの声には、凄いって囃すのと同時に、目撃した教師たちのお叱りも混じっているのだ。 駄目だ、駄目だ、絶対に耐えろって。 ……やるなって言われるほど、やってしまいたくなるのが人情と言う奴で。 「「あ……ッ、はははははは!」」 もう無理! 腹を抱えて爆笑をかませば、一歩の感覚を空けた目の前で、宍戸が同じポーズで涙目になってひーひー喉を鳴らしていた。私だって同じ気分よ、あんたがあんまり面白いこと言うから。するから。 「あ、あり得ない、なにそれ、……ッはは、再テストどうしたのよ」 「逃げて、……ぶはっ、逃げて来てさ。追っかけられてて」 「忘れてました、とか、言って、帰った振りしときゃいいのに、もう」 「だ、だって、思い付いたの、担任来てから、で」 それにしたって、体調が悪いとか、何だってあるのに。 嘘が吐けない性分なのは知っているけれど、だからって、普通、あそこから飛び降りる? 「宍戸、危険なことをするな! 教室に戻れ!!」 野次馬をかき分けて、二階の窓から顔を出した担任先生が吠える。私と宍戸はまだ笑っている。お腹痛いし、笑い過ぎて涙出てきたし。 危険? そうだ、めちゃくちゃ危ないことしたんだ、こいつ。でも何か、心配するとか以上に、何より面白いってのが上回ってしまって。 もう、ほんとに、最ッ高の馬鹿よ、あんた。 「、テメェ、またか! 上から人が降って来たら逃げろ!!」 「心配ありがとう跡部くん、もう迷惑はかけないから安心して!」 「信用ならねぇんだよ、お前の安心は!!」 担任の横から顔を覗かせた跡部くんが、“また”って言うのは一体何なのか分からない。宍戸じゃなくて私を怒るのは理不尽じゃないかとも思う。だけど、そう言うの全部置いといて、今こうして宍戸が隣で笑ってるのが、どうしようもなく楽しい。 「どうする、生徒会長様がご立腹だぜ」 「そうねえ」 宍戸がにいやり笑いながら声を掛けて来るのには、顎に指を当ててわざとらしく考え込む振り。もしかしたら宍戸は宍戸で、何かと付け入る隙のない跡部くんにやり返せるのが嬉しいのかもしれない。 「ごめんね跡部くん、開演時間が迫ってるの!」 気障ったらしく掌を振って、駆け出す私と宍戸の背中を、怒声だけが追って来る。 * まだ探されているかもしれないと、しばらく空き教室に籠った後に外に出た。はトリを務めるらしい。それなら急がなくても良かったな、とも思ったが、別に後悔も反省もしていない。 昇降口から階段を上がったところにある板敷のスペース。卒業生から寄贈されたと言うグランドピアノが端っこに置いてあって、雨の日は運動部が筋トレなんかに使っている場所だ。今まで意識して見たことはなかったけれど、確かに広さは俺たちの教室ぐらいはある。その真ん中で、顔だけは知っている女生徒が三人、並んで歌っている。 客席はなく、全員が立ち見だ。コーラス部の一、二年生が前列に集まっている。そこから一歩開けて、下校途中だったろう生徒たちが足を止めて並んでいる。家に帰ったところでやることもない暇人たち。顔見知りを見つけてその列の中に俺も加わったら、滝と忍足に加えて、長太郎までいるから驚いた。よう、と挨拶すれば、ひどく厳しい表情を貰ってしまった。 「宍戸さん、二階から飛び降りて逃げたって、聞きましたよ」 「げ、もう広まってんのかよ」 「先生は追い掛けるの諦めたみたいだけどね。明日呼び出し食らうんじゃない?」 「ほんまに、お前らようやるわ」 批難する声は剣呑で、長太郎が俺にこんな態度を取るのは本当に珍しい。滝と忍足は楽しそうに傍観を決め込んでいる。 「長太郎こそ、部活は?」 「一時間だけって約束で、抜けて来ました。先輩見たくって」 ほんとにお前はのこと大好きだよなあ、って茶化して、話題を逸らそうとしたのだけれど。 子供っぽく唇を尖らせた長太郎は、また頓珍漢なことを言い出した。 「飛び降りた宍戸さんが、先輩にお姫様抱っこされて、助けて貰ったとか」 「はあ!?」 「鳳は、それが羨ましいんやんなぁ?」 「違います、二人に危ないことして欲しくないだけです!」 何だそりゃ!? 思わず上げた大声に、周囲の視線が集まった。慌てて口を押さえて会釈を繰り返せばどうにか許して貰えたようで、目立たないようにそっと縮こまる。 「ほらほら、静かにしなきゃならないよ。ここは観客席なんだから」 くすくすと喉を鳴らし、俺と長太郎の肩を叩くのは滝だ。分かってる、ってむくれる俺たちに、その指先が廊下の一方向を示す。舞台袖の代わりらしい、次にステージに上がる者が控えているのだ。 そこには、がいた。 群青色のシンプルなワンピースタイプのドレス。腰の後ろで結んである、リボンは黒。髪は右に寄せてひとつに結って、肩の前に流している。少し化粧もしているのだろうか、半分瞼を下ろした横顔は、ほんの数瞬別人かと思えた、けれど。 静かなその表情を、俺は知っている。 音楽室のピアノの前、異国の譜を歌い上げた、あの時の顔。 「先輩」 長太郎が喜色を滲ませて呟く。その声が幾ら大きくたって今のには届かないだろうって、俺は知っている。 俺たちが試合の前に精神集中するのと、何ら変わりなく。彼女は今からまさに、ステージと言う戦場に向かおうとしている。 気付けば、三人の歌姫がステージの上で優雅に一礼をするところで。 慌てて拍手はしたけれど、俺の耳には彼女たちの歌声が欠片も残ってなくて、勿体無いことをした。 高い声が小さなステージを満たして、廊下に漏れて、ひとの中に響いて回る。 一人の体積にはとても収まり切らなさそうな声量が、ピアノに乗せて巡っている。 巧いとか下手とか、そう言う技術的なことは俺には分からない。 俺よりずっと音楽に明るいが、大したことないって言うんだから、それは事実なのだろうけれど。 ただ、凄いと思った。 確かな努力に裏打ちされた自信を抱いた、威風を帯びたその姿。 「ほら、宍戸さんと、似てるでしょう?」 長太郎が囁くのには応えないし。 すぐに曲に聞き入り直した長太郎だって、返事は求めていなかった。 いつの間にか曲は終わっている。 我に返って、慌てて拍手をした。 つんと澄ました顔のまま、は一礼を寄越す。 拍手が止んだ瞬間、破顔一笑、これ以上なく明るい表情に。 「それじゃ、最後に、三年生全員で。もう一曲だけ、今日来てくれた人たちに!」 の伴奏をしていたピアノが、そのまま緩やかに新たな曲調を紡ぎ始める。 ステージからはけていた生徒たちが、の元へわあっと集まる。 先程までの、ある種神秘的な表情は成りを潜めて。 やったね、とか、良かったよ、とか、言い合いながら、雑な横一列になって行く。 曲の歌い出しは、知っていた。 俺が気に入って、も聞けよって、イヤホンの片方渡して薦めた奴。 有名な、アメリカの女流シンガーのラブソング。 呆然としている俺に、歌うが視線を寄越す。 にぃやり、唇を歪めて笑うしてやったり顔に、この曲を選んだのはこいつなんだって悟る。 ――自分で起こした音の洪水に、客席がぞくってなった瞬間に、笑うんです、あの人。 ――あれは、落ちますよ。俺じゃなくたって。 成る程、――この顔か。 だけど長太郎、なあ、俺がどれだけの傍にいたか、馬鹿にしてねぇか? 板敷のステージと客席に段差は無い。 一歩近付いた俺に、前列の客たちが首を傾げながら場所を譲った。 舞台の上で、歌うが手を伸ばす。 小憎たらしい顔で笑いながら、俺の答えを知っていながら問い掛ける。 分かってるよ、って、笑顔を返した。 その手を取って、ステージに飛び込む。 の隣に体を捻じ込んだ俺に一瞬呆然とした観客は、――祝福するような、高い歓声を上げた。 * ステージも客席もなく、誰もが滅茶苦茶な歌詞で歌っている。 肩を組んで歌い、飛び跳ね、視線を交わす。 ラブソングを交わし合う傑作に、腹を抱えて笑い声を上げる。 この想いがたとえば、恋や愛に変わる瞬間が来るとするなら。 箱に入れて滅茶苦茶に鍵を掛けて、絶対に認めない。 恋人なんて不確定な、いつ壊れるとも知れない関係になんて、なりたくもない。 それが大人になるってことだって言うなら、大きくなんてならなくていい。 それでも体は育つから。 心だけ、この青い真夏に置いて行く。 あなたの前で、瞼を閉じれば。 お前の傍に、いつでも戻って来れるように。 十代の夢を抱いたまま、これからもずっと、君と。 (暑中お見舞い申し上げます) 2013/09/21 前橋 |