「何でっ、言ってくれなかったんですかー!!」

 肩をがっしり掴まれての、涙ながらの大絶叫。潤んだ瞳が訴えかけるのにガードは間に合わず、耳の奥でエコーがガンガンうるさい。
 男の子の太い指が私の肩に食い込む。非難轟々の涙目から推測すれば、そのまま前後にがくがく揺らして問い詰めたくもあったのだろうけれど、そこは鳳くんの育ちの良さからか私の嫌そうな表情からか、鼻先を近付けてじっと見詰められるに留まった。

「だって教えたら伴奏弾きたいとか言い出すじゃないの」
「言いますよっ、言うに決まってるじゃないですか、俺が先輩のファンなの知ってるくせにー!」

 素直に応えてやれば再び距離は近付いて、肩に指先がギリギリと。鳳くんに知られるのは想定外としても、予想はしていた反応なのでさほど戸惑いはない。まつげ長いなー、って、暢気に観察出来る程度のものだ。

「鳳。そろそろ離したりぃな」
「だ、だって……」
「別に止めろ言う訳やない。黙っとったさんが悪いんやしな、場所変えろってことや」

 鳳くんの肩を横から叩いた忍足くんは、何もこんなとこでやらんでもな、と、続けて。いやそれは大いに同意なのだけれど。

「ここじゃ日差しも強いからね。腰を落ち着けてやりなよ」

 横から苦笑を零すのは滝くん。切り揃えた針金のように真っ直ぐな髪の毛が、靡いた瞬間触れ合って、しゃらしゃらと音を立てるようだ。引退してからそんなに頻繁に顔を出しているのか、私のタイミングが悪いのかは知らないが、本日も氷帝テニス部には三年元レギュラー陣が数人。

「す、すみません。それじゃ、先輩、日陰の方に!」

 大きな体をしょんぼり縮めながらではあるけれど、それでも鳳くんは応援に勢い付いたらしい、あくまでも紳士的に私の右手の指先を取って、先導しようとするのは榊先生やマネージャーさんたちの座る日陰のベンチ。鳳くんの爪先が向いたことで、マネージャーさんたちは、退いた方が良いのかとあわあわおろおろ目を見交わす。ああ、いい子たちだ。
 忍足くんの言う、こんなとこ、とは。
 つまりは氷帝学園テニス部、レギュラー専用野外コートの、隅っこである。

「薄情」
「知らんかった?」

 一言だけ言い捨てれば、口元に薄く笑みを刷く忍足くんの表情はなんとも意地が悪い。ふんと鼻を鳴らして視線は改め、私を従順に待つ鳳くんへ、そしてその向こうで荷物やメモをかき集めて胸に抱き、退出の準備を急拵えでこなしたマネージャーさんたちへ。

「すぐ終わるから、そこにいて。邪魔して悪いわね」

 気を遣わなくて結構。
 目だけで制して――或いは私の一瞥は睥睨としか受け取れなかったか、ひいふうみいよ、五人の少女はビクンと肩を飛び跳ねさせるので、ため息吐きながら顔の前で手を振り、口に出した。


 *


 がテニスコートまでやって来てみれば、榊監督に用があると言う。擦れ違う時にどうしたんだって聞いて、先生に音楽室の楽譜棚の鍵を借りに来たのよって、交わした会話はそれだけだったので。
 日吉たち現部員がロードワークでコートを出ている間だけ、使わせて貰おうと。俺が忍足とネットを挟むコートからも見えるベンチで、長太郎とが別れ話もかくやと言うばかりに語り合っている内容も、その理由も分からない。

「秘密にしとったんやと」
「何を?」
さんが、何や歌うんやろ? 宍戸は聞いとるんちゃうんか」
「ああ、あれか、引退公演やるって」

 片手のラケットで地面にテニスボールを何度と繰り返し打ち付けていた忍足が、いつの間にかネット際までやって来ている。屈伸やら何やらと軽い柔軟をするのを止して俺も俺でネットの近くへ、間に横たわる距離は二、三歩ほどと話しやすい位置に。
 が勢いに押され、背筋を逸らして必死で間合いを取ろうとする。しかしベンチの背凭れで阻まれて、長太郎が身を乗り出してくるまま、体はどんどん逆海老に曲がって行く。横目で遠巻きに見る忍足が随分と楽しそうな顔をしている。

「俺も初めて聞いたんだけどよ。コーラス部の身内で、毎年やってんだってさ」
「ふうん。そりゃあ鳳が呼ばれへん訳や」

 忍足はくつくつと笑い、肩を揺らす。

「そこで一人で歌うんでな、ピアノ伴奏が要るんやって。それで、何で俺に頼んでくれへんだんやって、鳳がゴネとる訳」
「はあ。元々部活時間にやってんだから、そりゃ声なんか掛けねぇだろ。俺もそれで今まで誘われなかったんだし」
「てことは、今年は誘われてるんだ?」

 審判席の上で足を揺らす滝が首を傾げた。ワンセットマッチでもしようかとメールした結果集まった三人だ。ジャンケンで負けた滝が、最初は審判。
 頷いて応えれば忍足と滝は目配せし合って、何か心得たように同じ笑顔をした。なんだなんだ、不穏だぞ、この二人だと。思わず身を引く。

「そりゃまた、拗れそうやなぁ」
「いや、相手が宍戸な以上、鳳もそこまで噛み付かないとは思うよ。良いなあ、それ。俺も行こうかな」
「羨ましがって殴り掛かられるんちゃうか。俺が行けないのに何で滝さんが、ずるい、つって」
「……しません」
「お、長太郎。話終わったのか」

 肩を落として歩み寄って来た長太郎が会話に一言差し挟む。ひょいと首を伸ばして長身に隠れた向こう側を見てみれば、の姿は既になく、マネージャーたちが何事も無かったかのように仕事を再開していた。
 足元に置いていたラケットを拾い上げて、柄の尻を人差し指の上に。ゆらゆらとバランスを取るのは、手癖みたいなものだ。

「ロードワーク行かねぇのか? 若にどやされるぜ」
「日直で仕事言いつけられて遅れる、って言ってるから、良いんです。宍戸さんには理由なんか分からないでしょうけどっ」

 ぷい、とそっぽを向かれるのは……もしかして、これは、拗ねているのか。それにしたって一体どうして俺が責められる必要があるのか全く分からない。そう言うのは本人に言って欲しい、俺はあいつの文句まで肩代わりしてやる立場にない。
 先輩が幾ら凄いって言っても頷いてくれない宍戸さんには俺の気持ちなんか理解出来ない、ずっと一緒にいられるから見落としてるんだ、宍戸さんはずるい。
 長太郎がぶつくさと呟く恨み節の内容は、こんな感じ。結局忍足の予想通りの台詞を、内実は違うにしても吐くことになったことには気付いているのかどうなのか、そんなことを言われたって俺に出来るのは困って頭を掻くぐらいだ。

「そもそもや、あの人そんな巧いんか?」
「さあ」

 楽しげに長太郎のぼやきを聞いていた忍足が首を傾げて、問い掛けるのは俺に向かって。ますます返す言葉なんて思いつかなくて、曖昧な二文字には何も続けられなかった。
 さあ、意外に、言うことなんてない。本当に。
 とは気が合う。それは確かだ。そうでなけりゃ三年も付き合っていられない。
 だけれど、俺が知っているは、教室と休日と、なんとも雑把に纏めてしまえば、その二つだけの姿で。俺はがどんな歌を歌っているのか知らないし、あっちだって俺が部活でどんな風な練習をしているかなんて知らない。大会の結果とか、部活中の愚痴とか面白いこととかの話は、する。けれどそれだけ。
 そんなものじゃないかな、と、思うのだ。たとえばが世界的に有名な歌手だったとして、ああいやそれじゃ現実感がなさすぎて譬えに向かないか、そうだな、たとえばが毎日テレビに顔を出す若手シンガーだったとして。俺が肌で感じた印象に因ってでしか、友人とか恋人とか、そう言う関係は結べない。人の噂に惑わされるなって単純な忠告があるけれど、俺の場合は惑わされ方が分からないで、逆に困るのだ。
 特に、の話になるといけない。俺がいちばんあいつを知っているような、無意味な自負があるせいで、余所から吹き込まれる良いことも悪いことも、全部に首を傾げてしまう。俺の目に映るが、それですべてみたいな思い込みが拭い切れない。
 ――宍戸さんはずるい。
 ……だってだろ、なにが羨ましいんだ?

「巧いよ。コーラス部の定期演奏会を見に行ったことがあるけれど、さん、ソロを任されてたから聞いたことがある」

 忍足の問い掛けとは別のところで悩み始めた俺の横、代わりに疑問に応えたのは審判台の上の滝だ。長太郎と忍足と俺、コートの上の三人の視線が集まる先、長い睫毛を震わせて、なにかを眩しがるように目を細めた。

「少し低めの、落ち着いた声でね。何より堂々としてる。ホール中が聞き入ろうとして、しんと静まるんだ」

 はたはたと脚を揺らしながら楽しげに、ついに滝は目を閉じて。
 その瞼の裏の暗闇には、ステージの上のが映っているんだろう。俺がどれだけ頑張っても、いつもの教室で、ここ最近は暑い暑いって言って第二ボタンまで外して下敷きをうちわ代わりにしている、あのだらしない女子生徒が真っ暗な中でスポットライトを浴びている姿しか想像出来なくて、ひどく滑稽だった。
 でしょう、と満足げに頷いて、頬を弛める長太郎の顔は、喜色に淡く色づいている。

「尊敬してるんです、俺。先輩の、歌。……宍戸さんと同じぐらいにですよ、本当です!」
「何必死になってんだよ、激ダサだぜ。疑ったりしてねぇって」

 その感情の理由は分からずとも、長太郎が本気だと言うことばかりは、真実だって分かるので。
 ラケットの面で長太郎の肩をぺしりとやって、肩を竦めて苦笑を零す。はい、ありがとうございます、と、そんなに嬉しそうに礼を言われる理由は無いのだけれど。
 弁明で自然早口になっていた語調を留めて、長太郎はすうと長く呼吸をした。

「知ってますか? 音が、あるべきところにハマる感触、って、言うのかな。巧く伝えられないんですけど、……そうだな、オーケストラの高まりがひとつになる瞬間を、味わったことがありますか? 生の音の特権を、感じたことはありますか?」

 滝が頷く。忍足は黙って腕を組んだまま。俺は頭上にハテナを飛ばしながら首を傾げて。
 太陽を浴びて煌めく銀色の縁取りを受けた長太郎は、そんな俺たちを見てくすくすと喉を鳴らした。予想通りだったのだろう。どうせ俺は高尚なご趣味なんて分からねぇっつーの。

先輩ね、凄く楽しそうに歌うんですよ。いつもここに皺寄せてるから、ちょっと癖になってるみたいで、真剣な顔するとしかめっ面になっちゃうけど。歌えてるのが幸せだ、って顔して、それで、巧くなるのが楽しいって」

 人差し指を自分の額に当ててぎゅうっと押して、“ここに皺寄せてる”のジェスチャーだろうか。

「自分で起こした音の洪水に、客席がぞくってなった瞬間に、笑うんです、あの人」

 唇釣り上げて、不敵に。
 続けて、長太郎は、なにか大きなものに屈服せざるを得なくなったような諦観を映して、情けなく眉尻を下げた。ただし唇はゆるく曲げたまま、決してそこに不快の意図はない。

 恋なんてものではなく。
 魅せられたのだと。

「あれは、落ちますよ。俺じゃなくたって」


 *


 ひとりきりの部屋で立つのは、ピアノの前。指でキーを叩いて、次は押し込んで、同じ音を何度も何度も繰り返し、調子だけ変えて鳴らし続ける。目の前に立てた楽譜のはじめに記された、歌い出しの一音。耳の奥に刻みつけるように。
 コーラス部が練習をする音楽室のすぐ隣、教員用の音楽準備室は、つまりは榊先生の私室である。公演が近いから、榊先生がテニス部に顔を出している間だけで良いから貸してくれって頼みこんだのだ。氷帝学園の設備は相変わらず至れり尽くせりで、扉をきっちりと閉めてしまえば音はほとんど防がれ、空間がすっかり隔絶されてしまう。
 わざわざテニス部まで行って借りて来た鍵で、棚から取り出したのは伴奏用の楽譜。書き込みだらけの声楽譜と横に並べて、タイミングの確認はイメージで行う。榊先生が紹介してくれたピアノ弾きの後輩は外部でレッスンを受けている優秀な子だから、中々都合がつかずに合わせる機会が少ないので。
 ……それにしても、宍戸との会話から、鳳くんが来ないだろう時間を見計らって行ったって言うのに、運が悪かった。鳳くんと交流がありそうな二年の子には、引退公演のことを口止めしてたって言うのに。
 苛立ち紛れに、まずは軽い発声から。息を吸う。四拍子かけて、長く吐く。ブレスを幾らか繰り返し、声帯に空気を慣らしたら、ドレミファソラシド、恐らく日本に生きる人間ならほとんど全員が知る単純な音階を、これもまた四拍伸ばして上がってく、ロングトーン。音のひとつひとつがブレないように細心の注意を払って、音程を変えて、何度も繰り返す。
 歌は精密なパーツの集合だ。宝石を全て磨き抜いてから繋いでようやく、美しいアクセサリーが出来るように。薄汚れた石をどれだけ沢山集めたところで、所詮石の山にしか過ぎないように。
 他にもあれこれといつものルーチンを終えてようやく、景気付けに一度通して歌っておくかと上に伸びて――そこで、ノックも無しに、扉が開いた。

「宍戸」
「よう」

 流石に驚いた。ぱち、と目を瞬く私に向かって、宍戸は軽く手を挙げる。先程コートで見たテニスウェアじゃなく、今はもう制服に身を包んでいる。随分と急いで着替えたのか、拭い切れなかった汗がラムネを零したみたいに喉骨を伝っていた。
 榊先生に会いに、この部屋に来ることもあったのだろう。視線で部屋を走査して、来客用の丸椅子の上に腰を落ち着ける姿に戸惑いは見られない。

「どうしたの、部活は?」
「レギュラーが使うから出てけって、日吉に追い出された」

 まあその話はどうでも良くてさ、と、宍戸は続けて、軽く身を乗り出した。距離はおよそ五歩と言ったところか、椅子には座ったまま、下から私の顔を覗き込むように。

「さっき、どうやって長太郎言い包めたんだよ」
「言い包めるも何も。鳳くんがどれぐらいピアノ弾けるのかも知らないのに、頼む訳ないでしょ。榊先生の伝手でピアノ巧い子も紹介してくれるしね。事実を言っただけ」

 大分駄々は捏ねられたけど。
 鍵盤に背を預けるようにして腕を組んで、宍戸と向き合う。テーブルに出してあったサックスの通販カタログをぱらぱらと捲り始めるこいつは、もしかして居座る気なのだろうか。

「いつまでいる気?」
「やることなくなっちまったし、の練習終わるまでここで待とうかって」
「練習中の曲とか、あんまり聞かれたくないんだけど」
「別に良いじゃねえか、どうせ来週聞くんだし」

 ……ああ、なんて隠し事の下手な奴。
 カタログからちらりと上げられて私に向けられる視線は、なんでもなさそうな振りをしておいて、確かに好奇心が煌めいている。どうせ鳳くんの過剰な評価を聞いて興味をそそられたのだろう。汗を碌々拭かずやってやって来たのも、私が帰る前にって急いで来たからか……そう考えれば、コートを追いだされたって言うのも本当かどうか。
 全く、それならそれで素直に聞きたいって言えば良いのだ。受けてやるかどうかは別として。

「格好付けたいのよ。何でも完璧に出来る、凄い人でいたいの。発展途上の姿なんて見せたくないわ」

 言いながらくるりと体を反転させて、向かうのは白と黒の鍵盤。
 擦り硝子の窓はぴったりと閉じている。呼吸をしながら、深く深く、入って行く――集中する、と単純に言うのとは、違う。世間一般ではそうだよ、って言われたら、それでも私の中ではそうなのよ、って返すしかない感情論での言葉の選択。
 ぽおん、と、弦を弾く音。目を瞑る。息を吸って、長く吐く。
 意識の裡から宍戸の気配が消えて行く。風が窓枠をかたかたと揺らす音も、防音し切れない人の騒ぎ声も、そう言うの全部受け取れない場所へ、沈んでく。
 瞼の裏にきらきらと、思い描くのは、袖からステージの真ん中まで歩いて行く、あの道筋。自分の服がかさかさと擦れるのと、足音がするのと。耳に入る音はそれだけ。そうして、スポットの下で見つめる、客席の表情。薄暗くたって、目を凝らせばひとりひとりの顔は分かるのだ。眠っている奴の姿だって顕わに出来る。
 つまらなさそうにあくびをする人。早く終われと願う人。
 そいつら全部に、私しか見るなと、挑みかかる。

 はじめの一声は軽やかに、けれど自信に溢れて胸を張る、女がドレスを身に纏うように。
 Una voce poco fa――“セビリアの理髪師”より、“今の歌声は”。

(ラムネ・ソーダがう喉骨)


2013/09/09 前橋