日曜の夕方、なんて。言ってガラス張りの壁の向こうに視線をやっても、九月に入って幾らかではまだ秋の空気は薄いまま、青い昼空がなにも経由しないで、群青の夜に切り替わる。夏めいた入道雲は解体されて、フラタクルに薄く広がり出したのだけは、秋らしさと言えば秋らしさか。 夕焼けは秋の特権だ。学生感覚では夏休みがイコール夏の体現である。なのに天蓋に貼り付くのは秋とも夏とも言えぬ奇妙な青のグラデーション――果たしてこの空は、一旦どの四季を抱いているのやら。 「、次、どこで歌うの?」 「え、さん、引退したんじゃないの?」 四人掛けのボックス席の向かい側に並んで座る友人の内、片方が問い掛けるのに、片方がさらに疑問を重ねて来る。ハンバーガーショップの安いジンジャーエールをストローで啜りながら、私はゆっくりと思考を空からテーブルの上の会話へと移行させた。 と、。席替えの結果隣の席となって以来話すようになったさんはともかく、の方は神奈川の方の立海とか言う中学に通っていて、こうして友人関係を結ぶに到ったにも、紆余曲折とも言えぬ人並みにつまらない事情がありはした訳だが、それは今ここで語るべきことでないので割愛しよう。ともあれ、この二人が、本日私が共に過ごす相手だ。 「引退公演があるのよ。ほら、昇降口から直接二階に上がる階段。上がったところに板張りの場所があるの、さんは分かる?」 「あ、たまにチア部が練習してるとこ」 「そう。あそこでね、毎年、引退した三年が歌うの」 「じゃあ、私見に行けないかー」 湿気たポテトを口に放り込みながら回答すれば、がううんと呻きながら腕を組み、深く悩む素振りで眉間に皺を寄せた。その動作に、怪訝な表情を返したくなるのはこちらだ。 確かに、引退公演に向けて練習している、とは、に言ったことがある。けれども。 同じように――恐らく年季の差で私の方がよっぽど堂に入ったものになっていたろうが、ともかく同じように顔を顰めた私の表情に気付かなかったらしい、小首を傾げて口を開くのはさんである。 「ううん、でも、公演って言うぐらいだから、お客さんを呼ぶのよね。受付で話をしたら、入れるんじゃない?」 「身内の集まりよ。コンクールお疲れ様でした会ね。ソロだったり、数人でグループ組んだりして、三年が好き勝手に歌うのを囃すだけ。帰りがけに足を止めてくれる人なんかはいるから、割と観客はいるけど、わざわざ外部から来る人はOB以外に見たことないわね」 私はソロ、と、追加情報は転がすように続けてテーブルに肘をつき、組んだ指先の上に顎を乗せた。少し前のめりになって、ううん、と苦悶の声で呻き続けるの顔に真っ直ぐ疑念の目を向ける。 氷帝生であるさんですら知らないぐらいの、ちょっとしたライブみたいなものだ。三年間部活をやって来た練習の成果を披露する、と言うのが建前ではあるけれど、つまりは仲間内で最後の歌を、と。 「て言うか、普通に聞いたことあるでしょ、私が歌うのなんて」 だから、に抱く疑念はこれである。 そりゃあもちろんステージで歌うのとカラオケで歌うのと、全く歌声は別物だけれど、駄々をこねる程興味を抱く価値のあるものだとは思わない。 「違うんだってばー、愛娘の晴れ舞台見に行きたい心境なのー」 「誰が娘か」 テーブルに顎を擦りつけて、口の端で咥えたストローをぴこぴこやるの額に一発デコピン。 「だいじょうぶよちゃん、私がしっかり聞いて、レポートするからね!」 「え、さん来るの?」 「えっ」 その横、はりきって腕捲りをするさんに思わず素で返したら、一瞬空寒い沈黙が落ちた後じわっと涙目になるから、どうしようかと頭を抱えた。 「ちゃんだC!」 「お」 ファーストフードを貪っていたのは、何も氷帝にありがちなお嬢様育ちの気があるさんの社会経験、と言うばかりの理由ではない。が見たいと言い出した映画の上映までの時間潰しがそもそもの目的だ――運の悪いことに、その映画はちょうど私と宍戸が先日並んで見た奴だったりするのだが、まあ二度目は二度目で別の楽しみがあるだろう。 だから、少し早いけれども、場所を変えようかと。芥川くんに飛び付かれたのは、そうやって店を出た瞬間だ。 がぱちくりと目を瞬いているのと、さんが勢いに押されてその背中に半分隠れるようにしているのが横目に映った。はともかく、さんは私の隣の席である以上、芥川くんのこう言う素振りも見たことがあるだろうに……とも思ったが、そう言えば授業中の芥川くんがまともに覚醒しているところなんてほとんどないか。 秋の稲穂の色をした癖っ毛を肩に埋められてはしゃがれると、頬を掠めてくすぐったい。自分の名前が呼ばれているのだけは疑似的な本能で理解するも、早口で捲し立てる芥川くんよりももっと効率的に情報共有が出来る相手がいるから、芥川くんの横で軽く声を上げた、赤いおかっぱ頭に軽く手を振る。 「向日くん。どう言う面子?」 「可愛い後輩たちの指導に行ってやったのに、騒ぐなら出てってくださいって日吉に怒られた面子」 向日岳人は、そうやって自分の後ろに控える二人も加えて親指で指した。 眼鏡をかけた男、つまりは忍足くんが口元だけで薄く笑みを浮かべて会釈を寄越す。ああ言う風に、目を細めずに笑う癖がついているから、下手に整った容貌と合わせて胡散臭い印象を与えてしまうのだと思う。直せば良いのに。 もう一人は、――私と目を合わせないように焦点をさり気なくズラすのが分かるから、様子を窺うのも不快にさせるかと、私自身の意識からも弾いておいた。 「岳人がガキみてーにテンション上げっからー」 「お前だってレギュラー押しのけてコート入ってただろーがっ」 ぶすくれる芥川くんと、文句を言う向日くんが白熱し始めるから、ひょいと芥川くんの体を押し退けて、忍足くんの傍へと退避。どうせ騒いだと言うのもあの二人の話なのだろう、現部長らしい、日吉若と言う後輩は、テニス部の面々を通して顔と細々したエピソードだけ知っている存在だ。この存在感の強い三年を叱りつけるとは、中々度胸があるようだ。 背後のさんとに視線でこっちに来いと示してやれば、店の入り口できゃんきゃん言い合うあの二人は移動させなくて大丈夫なのかと、さんは慌てているけれど。 小首を傾げて顔の横で立てた人差し指をくるくるさせると、通じ合うアイコンタクト。 アニマル系さんって奴? 犬猫みたいって言っちゃって良いわよ。 「何や、女子会の邪魔してもた?」 「ひゃ!」 横合いから声を掛けた忍足くんに対するさんの反応は、まるで対不審者のそれだ。びくんと肩を跳ねさせて、たたらを踏みながらの影へ。まったく、とため息を零しながら前髪を掻き揚げる。屋根もないせいでじりじりと暑く、額に汗が滲んでゆくのが見ずとも分かる。 「大丈夫よ。忍足くんは盗って食う相手選り好みするから」 「えっ、なにそれ、だって摘み食いぐらいされたって良いお年頃なのに。摘んだげてよ眼鏡くん!」 「ううん、さんかぁ、個人的にはもーちょい色気ある方がなぁ」 忍足くんは、掠れた低い声で、殊更平坦に喋る。確かに聞き慣れない方言は驚きに値するかもしれないが……声質なんて生まれ持っただけの話だし。 慣れているのか苦笑を零す忍足くんが少しばかり不憫だから、非も無いのに謝らなくて良いように、こう言う軽口を叩いてやるのが、私と彼の友人関係の、最良の距離。 「な、なんか失礼な話されてる気がする!」 の後ろで両手を振り上げ抗議をするさんに、三人で笑う。忍足くんがその合間に目礼しながら、おおきに、って口だけ動かすから、どういたしまして、って返してやった。 さて、一頻りこちらの話が一区切りすれば、邪魔なのは未だ店の玄関先でじゃれ合っている犬猫二匹である。歓談の和やかさそのまま、忍足くんを向いて顎で騒ぎの方向を示す。心得たと相手が頷いた。 「二人とも、喧嘩するなら場所考え」 「うえ」「ぐえ」 首の後ろの襟元掴んでぐいっと引っ張れば、お互い負けじとぐりぐり近付けていた額も呆気なく離れて。忍足酷いCー、とか、くそくそ侑士ー、とかなんとか、首を絞められながら言う二人の文句は忍足くんに対するものに移行した。 話していたのは数分と掛かっていないだろうが、改めて腕時計を見れば上映時間が迫っていることがよくよく実感できる。連れ合いの名前を呼べば、子供の喧嘩を仲裁する忍足くんを見て笑っていた良い子の二人は大きく返事をした。 「行こ。間に合わなくなる」 「あ、はあい、それじゃあね、忍足くん」 「ん、楽しんで。ちゃんとさんの背中ついてくんやで、はぐれたらあかんで」 「うん!」 「馬鹿にされてるよ、」 「へっ、なにが!?」 先程と似たような会話が展開されているのを横に聞きながら、二人の爪先に横たわった間合いを詰めることはしない。忍足くんのさらに一歩後ろ、拒絶の意図を露わに腕を組んでいた“もう一人”に、掛ける言葉は一声だけだ。 「それじゃ」 「ああ」 跡部くんは、――我が氷帝学園のスーパースター、跡部景吾は、私と目を合わせようとしないまま短く言った。 * 跡部景吾がを苦手とする理由は彼自身にも判然としないが、その苦手意識がはっきりと確立された時期だけは了承している。 帰り道で宍戸と一緒にいるところをたまに見かけた。いつの間にかその輪の中に、岳人とジローが入るようになっていた。昔クラスが一緒だったのだとか、委員会でどうだとか、忍足や滝とも廊下で話しているのを知っている。一時期、宍戸の彼女じゃないのかって話が持ち上がったことがあるから、皆僅かなりと興味を持っていたのだと思う。僅かな興味を友情に昇華するだけの人柄が、に備わっているがためなのだろう、けれど。 苦手なのだ。 ひとを好きになるのに理由が要らないと言うなら、ひとを嫌うのにも理由は要らない。 いいや、跡部からへの感情は、決して悪感情を孕んだものではないから、嫌いと言う単語は適切ではないのだけれど、……だから、やはり、訳もなく苦手だ。 そもそものきっかけと言えば、二年の終わりの頃まで遡る。 昼休み、生徒会室で所要を済ませた後に階段を下り、踊り場に辿りついたところで、跡部様、と呼ばれたのだ。振り向けば階段の上に女生徒がひとり、顔を真っ赤にしているから、ああ、群れを為して黄色い声を上げるファンたちの輪に巧く混じれず、意を決して話しかけて来たのだな、と。 どうした、と返事をした。薄く笑みを浮かべてやるほどにサービスもした。その相手が一年生だと言うことも、生徒会長の務めとして全校生徒の名を暗記している跡部は知っていたし、四限目に一年が調理実習をしているのも聞いていて、ならば導き出される結論はひとつである。丁度、綺麗にラッピングしたカップケーキが女子生徒の手にあるのも見えた。 「良いぜ、受け取ってやる」 薄い色した髪をかるく額の上で揺らして、跡部は薄く笑う。採光用の窓から差し込んだ春に成り切れぬ光が、澄んだアイスブルーの虹彩を煌めかせた。朗々と尊大に、その仕草に見合う見目を彼は持ち合わせていた。 それは、女生徒が見惚れるのにだって十分で。 駆け出そうとした爪先が、階段を捉え切れずに空を掻く理由としても、十分だった。 「きゃ、――ッ!?」 馬鹿、とか、危ない、とか、無益な言葉を言う気はなかった。 女生徒の体が傾いだ瞬間、せめて受け止めようと走る、――走ろうと、したのだ。 素早いその動きを、跡部の目だけが、その場できっと克明に捉えていた。 傾いた中、何かで体を支えようと手さぐりにばたつかされた細い手首を、女生徒の傍を追い抜こうとした人影が掴んで。 だけれど落下を始めた勢いを殺し切れる訳がなく。 ――女生徒を力任せに引き寄せて腕に収めたその女は、躊躇いもなく共に落ちることを選んだ。 跡部が立ち止まったのは、何も無情がためではなく、二人分の体重を受け止めきれはしないだろうと瞬時に判断をしたためだ。 どさり。重い音がする。なんとも五十音で形容しがたい声で呻く、その女の顔は知っていた。目を白黒させている後輩を体の上に乗せて、眉宇を歪めるが、重いんだけどと髪を掻き上げる仕草は平生通り。 頭を打たぬように背中から落ちたのだけは評価しようと言いたいが、腰を強かに打ちつけたらしい、片手が痛みに疼く部分を擦っている。 「大丈夫?」 「は、はい! そ、それより、あのっ、先輩が……!」 「まあ、頭は打ってないし、平気でしょ。……あー、いや、やっぱ痛いわ。跡部くんに用事だったんじゃないの?」 「そう言う抜けたこと言ってる場合じゃねぇだろう。まず退いてやれ」 跡部が下級生に手を貸してやれば、身を呈して己を庇った人間がいると言う事実にようやく実感が湧いて来たらしい、顔を蒼白にしながらよろめくように立ち上がった。騒ぎに気付いたか、少しだけギャラリーも湧いて来る。 怪我はしていないかと何くれと跡部が声を掛ける間に、はさっさと手すりを頼りに立ち上がる。煩わしさも露わに囁き交わすギャラリーを一瞥、ふらふらと歩いて行こうとするから思わず咎めた。 「おい、。どこ行くつもりだ」 「教室だけど。跡部くん、予鈴聞こえなかったの?」 それは、確かに、昼休み終了五分前を告げるチャイムは鳴っていたけれど。 きょとんと目を円くしたの仕草に、跡部は眉間に深く皺を刻んだ。 「それより医務室だろうが、何考えてやがる!」 「別に湿布貰って終わりよ、行って痛みがなくなる訳じゃないし、私常連だから心配もして貰えないだろうし」 「そっちじゃねぇ」 低い声。まるで脅し付けるようだと自分でも思った。 聞きたいのはそっちじゃない。先程からの急展開に追い付けないらしい、女子生徒の視線が、これは仲裁したものかと二人の間を行ったり来たり。その様子をちらと横目で見て示してやれば、跡部が言いたいことに気付いたらしい、ああ、と、は軽く声を上げた。 ああ、なんだ、そんなこと。って、感じで。 「だって、手が届く位置にいたんだもの」 けろっとした調子に、これは苦手だ、と、悟った。 そして翻り、中学三年、残暑。 昇降口を出たところで横に並んで二人きり、跡部とは無言のままに鼻先の雨を見つめている。 小雨とも呼べない、豪雨とも呼べない、ぱた、ぱた、音を刻む、穏やかな夕立。 「傘。要る?」 「車を回すように電話を入れた」 脈絡もなく口を開いたのはだった。彼女はこの粘度を増すような気まずい空気に、重さをまるで感じないらしい。つまりは気まずいと思っているのは、跡部の方だけだと言うことに他ならないのかもしれないが。 つれない返事にも、は、そう、と気楽に応答するだけだ。ぱた、ぱた。雨音を楽しそうに見つめている横顔が笑みの形に弛んでいるのを見て、なぜだかたじろいだ。 「俺に貸したら、お前はどうやって帰るつもりだったんだ」 もしかして相傘を提案するつもりだったか、と、言った後に気付いて、それからすぐに否定する。階段の件さえ思い出せば、その手の中のエメラルドグリーン色した傘は、きっと跡部に丸ごと進呈される予定だったのだろうと容易に想像がついた。 「教室のロッカーに、折り畳み突っ込んでるのよ」 取りに帰れば平気、と口にして。 また、不意に沈黙。 「今日は、宍戸と一緒じゃねぇのか」 「もしかしてさ、跡部くん、私の友達があいつだけって思ってる?」 「少なくとも今、孤独に見えるけどな」 「あら、ついさっきから二人じゃないの」 あなたと、私で。 が楽しげに笑って冗談めかし、二人の間を人指し指の先が行ったり来たり。釣られて笑うこともせず、跡部の返事はぶっきらぼうだ。 「そうか」 「そうよー」 互い、黙る。 次の沈黙は長くて、が雨の光景を瞳に映しながら、ぼんやりと呆けているのを視界の隅に捉えたから、なんとなく跡部が考えるのは今隣に立つ彼女のことだ。 テニス部員から聞く限り、少ないながらの付き合いから汲む限り、滅私奉公と言う柄でもないだろうに。 多分、恐らく、と言う人間は、身の内に入れた人間に優しくするのが、本心を晒すのがひどく苦手な、天邪鬼なのだろうと思う。 だから碌に話したこともない跡部に対して、ただ擦れ違うだけだったはずの名も知らぬ女生徒に対して、身を投げ打って尽くして、バランスを取った気分になっている。 廊下で、道で、が友人と認める相手にいつも見せる、斜に構えた皮肉げな笑みではなくて。 雨のリズムに心を揺らして、ふやりと口元を弛めた甘い笑顔をしていることを、きっと彼女は自覚していないのだろう。 親しくない相手だと思うからこそ本心を晒すことに厭わない、馬鹿正直な捻くれ者。 「何で帰らない?」 「跡部くん、ひとりで車待つの寂しいでしょう」 「俺様を誰だと思ってやがる」 「やだ、可愛くない」 わざとらしく鼻を鳴らして普段の調子を演じてみせれば、随分と白々しく耳に響いた。がけらけらと笑っている。慣れない。座りが悪いのだ。ヒーローショーを待ち侘びる少年のように、足の位置をじりじりと何度も変える。 やがて、車がついたと連絡が入った。昇降口まで回せと言っておいて。 乗せて行ってやろう、とは、言えなかった。 「お迎え来たの、良かったわねぇ」 が湿気にふやけたような笑みを跡部に向ける。 友人と認めては認め返す関係の彼らは、きっと見たことのない表情を、今ここでしている。 尤もらしい友人関係を結べば、あともう一歩距離を詰めたら、この居心地の悪さを感じずに済むと知っていて。 息を吸うのを躊躇うような、むず痒い気持ちを感じられる相手は稀有だと。 跡部の性格上、滅多に味わうことのない関係性の名を判じかねているだけの気はしたけれど――それでも、この三歩分開いた距離が、との間に横たえるには丁度良いと思うから。 (汗と夕立、それと何かが) 2013/08/28 前橋 |