が音楽室にいるのを見たことがない。
 そう正直に伝えると、大抵の奴らが嘘だって言うけれど。
 コーラス部の活動が無い日だとか練習の後だとか、わざわざ榊監督に鍵を借りに来て、一人残って歌っているのは知っている。家で歌っちゃ近所迷惑だろうって飄々と言っていた。そりゃ確かにそうだって思った。
 も、俺やジローや岳人と同じ、所謂庶民だ。氷帝の中では少数派。昔から氷帝のコーラス部に外部から指導に来ているボイストレーナーが有名で、だけれど個人レッスンを頼むには――本人曰く、とびきり上手い訳でもない中学生の趣味に支払うにはあまりに高額だから、せめて少しでも教えに預かりたいと、氷帝学園中等部への編入を志望したのだとか。
 そう、だから、俺がと会ってから、数えればたった三年だ。なんだか変な感じだ。不意に、ジローや岳人と同じように、ずっとガキの頃から近所に住んでて一緒だったような感覚にもなる。だけど、あの幼馴染たちとの距離は、俺を挟んでそれなりに繋がっただけで。
 学校を追い出されるような時間ギリギリまで、は防音室で歌っている。全国区を保ち続けるテニス部の練習も大抵は時間を目一杯使って行われるので、なんとなく、玄関で待ち合わせるのが習慣になった。それで、いつの間にか、同じ方向に帰るジローと岳人も並んで帰る日が増えてきた。
 俺が見慣れたの行動にも、ジローが笑ったり、岳人が驚いたり、俺の体感と時計の歩みがズレてる気がして、それで、その度にに確認しては、俺の時間軸の方が間違っているんだって思い知って。本当に、変な感じだ。
 いいや、話がズレた。
 とにかく、がそれだけ真面目に取り組んでいるのを知っているし、俺は音楽の高尚さとかは分からないし、そもそも自分の部活をサボる訳にもいかないので。興味本位で聞きに行ったりすることは出来ないって、どうしてみんな分からないのだろうって話だ。

「え、宍戸さん、先輩の歌、聞いたことないんですか?」
「長太郎まで言うのかよ、それ」

 朝練の後のことだ。コートから昇降口まで、長太郎を待って二人並んで校舎へと歩いていればそんなことを言う。目を円くした長太郎と視線を合わせようとするとどうしても見上げなければならなくなって、銀色の髪が弾いた太陽の光がきらきらと、網膜に焼き付くように眩しい。
 呆れの表情を作っておいて、頭を掻く。聞いたことがない、と言われるとそれもそれで語弊があるのだ。

「聞いたことねぇって訳じゃねぇよ。カラオケよく行くしな、上手いと思うぜ。好きな曲とか聞かせとくと歌ってくれるんだ」
「ええっ、良いなぁ、それ。羨ましいです」
「そうかぁ?」
「はい、すごく」

 どうにもが真面目に声楽で歌う曲と言えばイタリア語の歌詞ばっかりらしく、俺の好みが洋楽に偏っているから、カラオケでぐらい日本語の曲が歌いたいとぶつくさ言っているけれど。長太郎が興味深そうにしているからそうやって教えてやれば、目を輝かせながら何度も頷くから流石に困ってしまう。他にはなにかありませんか、と無言で訴えられても、一体どの情報が長太郎にとって得になるのか分からない……どんな得があるのかも分からない。
 それだけ! って無理矢理に声を上げて話を切ってやったら、長太郎はまた情けなく、えぇっと呻いた。歩調を速める俺の横にとてとてと追い付いてきて、長身の後輩は幸せそうにへにゃりと表情を弛める。

「夏休み明けてからの話だから、宍戸さんも朝練帰りに聞いたことあるかもしれませんよ? コーラス部も、夏のコンクールで引退だって」
「そりゃ知ってるけど」

 もちろん、から聞いた。うまく全国まで勝ち進んだら九月中にまで食い込む可能性もあったらしいけれど、まあそう都合良くは行かないわよね、って肩を竦めていた。引退後の打ち上げってことで、夏休みの終わりに二人でカラオケ行って、それからストテニに付き合わせたのも記憶に新しい。
 だけど、長太郎が言ってるのはそのことではないだろう。疑問を表情に浮かべてみれば、察し良く少し浮かれた様子で、続きを口にする。

「それで、先輩、あんまり部活やってる時間に邪魔するのも気が引けるって、朝早く来て歌ってるんですって。窓を開けてると、ここで聞こえるんですよ――ほら、あの、三階の端っこ」

 陽光を覆うように掌で庇を作って、指される先を見れば成る程、大きく窓を開けたあの場所は、音楽室が位置するところか。下から見上げる分には中に誰がいるかなんて分からないし、今は長太郎の言う歌声も聞こえず、沈黙するばかりだけれど。
 しかし、がそうやって歌っていると言うのは、まあやりそうなことだ、ってもんだ。それよりも気になるのは別のこと。自然と怪訝そうな顔にはなっていたと思う。そう言えば、に長太郎の名前を聞かせると、いつもなにか戸惑うような顔をしている。

「長太郎、お前、とそんなに話してたのか?」
「いえ、コーラス部の子が、同じクラスにいるんです」
「それにしたって」

 詳し過ぎやしないか。
 繋ごうとした言葉は、真上から降って来た歌声に途切れる。

 最初は、なんの音だろうか、と。
 長太郎の足は自然を止まっていた。そうして三階を見上げているから、そこでようやく、これがの声なのかと理解した。
 声だとも認識できない、ただ真っ直ぐに伸びやかな、純粋な音がする。メロディではなかった。二人ともが足音を止めても残暑の大気は賑やかで、厚い夏の気配を通してでは、なにかの音を、どこかの言葉で、調子を変えずに鳴らしているだけだとしか分からない。
 ふうん、歌うとこんな声になるのか、と、思った。ただそれだけだ。いまいち現実感がなかった。だけれど長太郎には俺に聞こえないなにかが知覚出来るのか、胸元のクロスをぎゅっと握るようにしながら、眩しげに薄く目を眇めている。

「俺ね、先輩に憧れてるんです。宍戸さんの隣にいて見劣りしない、凄いひとだなって。努力家に弱いだけって言われたらそれまでですけど」

 もう少し、長太郎はなにか続けるつもりなんじゃないかなって思った。はく、と唇を一度、二度、開けては閉じて、言葉を探すように舌で湿らせて、だが一体何なのだろう、ふるりと首を横に振る。
 つまり、と話を切り替える声は色を変えて明るい。俺のことを真っ直ぐに見詰めて来る目から、さっきまで浮かんでいた憧憬は既に姿を消している。

「俺、宍戸さんに吊り合う女の人は、先輩だけだと思ってますから!」
「お前は俺の私生活に対して何の権利持ってんだ」

 拳まで握って熱弁されたので、うっかり反射的に背中を思いっ切りどついてしまった。


 *


「あ、怪我してる」
「怪我してなきゃ来ねぇよ。転んだ」

 我ながら激ダサだぜ、とかなんとか、ぼそぼそと。
 教室に遅くまで残ってたのは日直だからだ。今日提出になってた小論文課題を書いていない生徒がいたから、せっつくついでに付き合っていたら、もうそこら中で部活動が始まって掛け声が上がっている。音楽室を借りようにも、コーラス部の子たちが練習をしている間にお邪魔するのは申し訳ないので、近頃は大抵朝に借りるか、部活が休みの日を後輩に伝えて貰ってそこを狙うかのどちらか。つまりはめっきり放課後が暇になってしまった訳で、誰か話相手を求めていれば、丁度居残りの生徒……つまりは芥川くんがいたので、ちょっかいをかけていた訳である。眠ろうとしては起こされて、芥川くんにとっては良い迷惑だったろうが、先生は課題を集められるし私は暇潰しが出来るし、一石二鳥。
 ともあれ。そんな風にだらだらと過ごして、まあ帰るか、って考えながら課題を提出に職員室まで行って、保健室の前を通りがかった時に、宍戸とばったり出会った、と言うのが事の顛末だ。
 もう引退したけじめとしてか、レギュラージャージは着ていない。黒を基調にした自前のテニスウェアから伸びた左の膝小僧は、皮が破れて肉の覗く、酷い有様だった。横を通った女子生徒が二人、驚きにびくりと身を揺らすのが見えたので、宍戸の代わりに大丈夫よって笑っておいた。目の前の友人は、皆のアイドル、テニス部元レギュラー様なのだ。

「今日はお付きの鳳くんはいないのね」
「たかだかOBが、レギュラーの練習時間潰す訳にいかねぇだろ?」

 少し、安心したと言うのが本音。鳳くんは良い子だと分かっているけれど、ちょっとだけ苦手。良い子だからこそ、捻くれ者の私には理解が及ばないのかもしれないけれど。
 安堵の息を吐く私に気付いたかどうかは知らないが、宍戸はひょこひょこと片足を庇って歩く。なんとなく横をついていく。こいつの生傷が絶えないのはいつものことだから、すっかり見慣れてしまった。
 掴まる? って、手を出しながら黙ったままで首を傾げたら、やっぱり向こうも無言で首を横に振るので、そう、とだけ呟いて頷いた。代わりに、その手でそのまま保健室の戸をノックして、返事を待たずに入ってしまう。

「すみませーん、先生。宍戸が膝擦り剥いたみたいで」
「あら、宍戸くん。部活引退して、ようやく私も暇が出来ると思ったのに」

 たまに行き合うだけの私が慣れてるなら、保健室の先生はそれ以上に慣れている。もう呆れるのにも飽きたような、くすくす笑う先生は確か四十幾つだと言っていたか、結い上げてバレッタで止めた髪の美しい女性だ。美人を意識してしまうのは男子の本能なのだろうか、バツが悪そうな顔で宍戸がそっぽを向く。

「……自分らでやるンで、放っといてください」
「はあい。ちゃんと洗った?」
「ッス」

 いかにも運動部なお返事をしている間に、私は私で棚からガーゼを取り出して適当に切り取った。壁際に設置されたソファに座れと宍戸に顎で示してから、ガーゼを洗面台で濡らしておいて、丸椅子を引き摺って来る。この辺はもうルーチンワークみたいなものだ。
 宍戸が短パンの裾を引き上げて晒した濡れた傷口の大きさに合わせて保湿シートをハサミでざくざく切りながら、半ば感心したような声が出た。

「ほんと、生傷多いわよねぇ、あんた。私に虐められてるって言ったら、鳳くんあたり、信じそう」
「……もしもンな噂流れたところで、のこと疑うのは、長太郎に限って、あり得ねぇだろ」
「何それ、鳳くん以外は全員疑うってこと?」
「そう言う意味じゃ――」

 硬いソファに座る宍戸の真正面に低くした丸椅子で座ると、丁度傷口を覗き込む姿勢が作れる。じっとりと睨み上げておきながら、宍戸の脚に掌を添えて固定した。筋肉質な体は硬く、浮かんだ汗までが生温い。もう片手に水をたっぷり含ませたガーゼを握って、思い切り良く傷口を拭う、と。
 ひぎゃあ、と、宍戸が悲鳴を上げた。

「だっ、痛だっ、馬鹿っ! 止め……ッ!」
「仕方ないでしょうが暴れるなッ、土残ってたら余計に酷く……、ああもう最悪ッ、スカート濡れた!」
「あのなぁっ、そんなことより怪我人のこと考えろ馬鹿!」
「馬鹿馬鹿言ってンじゃないわよ馬鹿、涙目じゃないのよばーかっ」
「そうだよお前のせいで泣いてンだよばーかッ!」

 咄嗟に何か縋るものが欲しかったのだろう、ガッと宍戸が私の両肩を掴むから、指が食い込んで滅茶苦茶痛い。ラケット握ってるから握力ばっかり鍛えられてるんだ、この馬鹿力。
 うるさいッ、て苛々しながら叱責して睨みつけてやれば、こっちを睨む宍戸が冗談じゃなく涙を浮かべてて、うっかり噴き出してしまった。げらげら笑う私に幾ら抗議しても無意味だと悟ったか、宍戸は傍観者に目を向けた。

「マジで痛いんだって、……――ッ、これこそ虐めなんじゃないですかね、先生!」
「うーん、でも、さんにやって貰って、宍戸くん、ずっと綺麗に治ってるでしょう? 私がやると痛いの我慢しちゃうけど、声出した方がよっぽど気が楽になるだろうし……うん、十分綺麗ね。もうシート貼っちゃって良いわよ、さん」
「はーい」

 ひょこひょこと近付いて手元を覗いた先生からご指示を頂いたので、血で薄く赤に染まったガーゼは横に置いて、保湿シートの接着面を覆った透明のシールを剥がしにかかる。これが苦手だ。
 私が手こずっているのを手伝う気はないらしい、さっきまであれだけ騒いでいたのを無かったことにするみたいに、ぼうっとした様子で膝をゆらゆらと左右に揺らしていた宍戸が、何となしに呟く。

「いつの間にかさあ」
「ん?」
「消毒液かけるんじゃなくなってるんだよな。割と好きだったんだけど、あれ」
「ああ、分かるわ。傷がしゅわしゅわ言う奴」
「直接傷口抉られるより、よっぽど楽だったろうなーって」
「まだ足りないなら、今からもう一回やり直してあげよっか」
「げ」

 毒吐く姿勢が良い度胸だって、そっと丸めたガーゼに手をかければ、宍戸は壁にぴったりと背中をくっつけるように身を引いた。別に本気だった訳じゃない。怪我はきちんと治すべきだと思ってるし、無駄に痛くしているつもりは私だってないんだから、宍戸がオーバーリアクションなだけだ。それでも私のやり方が嫌だって言うなら、私に頼まなければ良い。
 ふんと鼻を鳴らせばちょうどシートが剥がれた。巧く爪に引っ掛かったらしい、手早く準備するコツなんかがあるなら是非とも教えて欲しいところだ。

「いつの間にか変わるわよね、何でも」
「若者が、年寄りぶるんじゃありません。私が虚しくなるでしょ」

 ぺたん、膝に白いシートを貼り付けて、おしまい。
 何故だか妙にしみじみしたものになってしまった台詞に、先生が軽く冗談を被せてくれたから、滲んだ感傷は悟られずに済んだろう。

 ありがとな、って、宍戸が笑う。
 三年分の関係の積層も、泡を上げて、変わって、消える。
 そんな時が来るのだろうか、なんてぼんやりと思ってしまったのは、きっと、夏のせいだ。

(オキシドールが荷みたいに)


2013/08/21 前橋