夏休みも、明けて数日。暦の上で何をどう数えたところで朝方の太陽は未だにやつくような光を登校中の生徒の上に降らせるから、各々その足取りは重い。汗でカッターシャツがじわりと肌に貼りつくのと、しゃっきりしない調子で呻く人混みの両方が鬱陶しくて、飛び切り剣呑に舌打ちを零した。口寂しさに舐めていた飴を奥歯で噛み砕く。苛立ち露わな私の様子に、疎らにしかいない生徒たちはそっと距離を取って道を譲った。 何その跡部くんみたいな扱い。私があいつと同レベルって? 眉間に深く皺を刻みながら、ローファーの踵でガツガツと乱暴に地面を蹴って進んで行けば、辿り付いた昇降口で足音に振り向いたのは忍足侑士だ。私が不機嫌も常のこと、臆することなく片手を上げてくれる。このぐらいの対応をしてくれた方が気楽で良い。 「おはよ、サン」 「宍戸は?」 「久し振りに会っといて第一声それかい」 「おはよう忍足くん、今日も格好良いわね。素敵な夏休みは過ごせたかしら」 あんまりな物言いに忍足くんがこれ見よがしにため息を吐くから、棒読みで適当を言ってやれば、その返答もまた嘆息。女子の同情を引くのは得意なんやけどな、なんてぼやかれたって反応してやるつもりもない。私に何を期待してるって言うのか。下駄箱から払い落とすように上履きを取り出して、改めて質問を繰り返すだけだ。 忍足くんの額には、通学路を歩いて来ただけのそれではない汗が滲んでいる。朝練に出ていたのだって予測がつくから訊いている。 「宍戸は、どうしてる?」 「あいつ、今度は何したん。そんな苛々して」 「数学のプリント貸してるのよ。小テスト前に見直したいの。それだけ」 一日だけの約束で朝の小テストの出題範囲を渡したまま、互い受け渡しを忘れて昨日は帰ってしまった。私自身特別数学が苦手と言う訳ではないし、朝練に来ているか確認が出来れば、それで良いんだけど。 あっつい、と毒吐きながらネクタイを弛めて第一ボタンを開けて風を通す。首筋が詰まってると汗が溜まって気色悪くて仕方ない。それでようやく苛立ちの理由がプリントに関することだけではないと悟ったらしく、忍足くんは肩を竦めた。並んで階段を上がっていれば、擦れ違う後輩に会釈されて偉そうに頷いている。 「鳳が鍵当番やから、付き合って待つ言うとったわ。まあ、すぐ来るやろ」 「あいつらやっぱりくっついてるんじゃないの」 「全く勘弁して欲しいわ、部内恋愛とか、気ぃ遣うやん」 大げさに嘆いて顔を片手で覆う忍足くんは否定もしない。だから、お疲れ様って私も返した。 鳳くんの名を聞いた瞬間に眉宇を歪める私に、忍足くんは意地悪く笑う。なにか口にしようとしたその吐息を跳ね退けるように喋る。忍足くんのからかい文句はねちっこくて体力を使うから、朝っぱらから応対したくはない。 「て言うか、テニス部ってもう引退でしょう? 律儀よね」 「細かい仕事の引き継ぎとか、教えたらんとならんしなあ。こそどうなん」 コーラス部、と繋げられて、そこで丁度忍足くんのクラス、三年H組の前だ。話し込む必要のある話題でもなし、さっさと忍足くんの背中を教室の中に押し込んで、昇降口で彼がしたようにひらりと手を振った。 「天下のテニス部様ほど、熱心じゃないから。それじゃ」 「ん。ジローに漫画返せ言うといて」 言うだけね、と嘯いておきながら、C組に向かって廊下をゆく。会話のお陰か空調の利いた校舎のお陰か、くありと大あくびを漏らす程度には、短気もなりを潜めてくれていた。 いずれにしろ、私がこんな風に氷帝での生活を送っているって、ご理解頂ければ幸いである。 * 「おはよ、お疲れ。プリント返して」 「はよ。あのさ、一問分かんなかったんだけど、教えてくれねぇか?」 「はぁ?」 あくまでOBと言う形だけれど、いざ部活に顔を出してみればやっぱり体が疼いて仕方ない。汗を流すために頭から被って来た水がまだ髪の毛を湿らせていて、に頭を下げると同時に首筋を伝った。 俺なりに精一杯申し訳なさそうな顔を作って頼んでやったって言うのに、は思いっ切り不快そうに片眉を跳ね上げた。まあ、想定内だ。 「朝練で爽やかに汗流してた身分で何言ってるのよ。私だって勉強したいの」 「だったら大丈夫だって! 頼む!」 「別の子捕まえれば良いでしょ。宍戸だって友達いない訳じゃないのに」 「お前の説明が一番分かり易いんだよ。プリント貸してくれた礼も合わせて、今度なんか奢るからさ」 早く返せ、と、掌を向けるの反応も態度も、俺にとっては慣れたもの。引き下がる素振りを見せるつもりはない。伊達に三年間同じクラスで友人をやって来た訳ではないのだ、だってそれぐらい分かっているだろうから、だから、このやり取りは社交辞令とか定型文とか、そう言う奴。何の因果か、先日の席替えで席も前後になってしまった。 芝居がかったようにも見える仕草で、は机の上に肘をつき、組んだ五本の指先の上に顎を乗せた。言質は取ったぞ、と、にぃやり笑って俺の目を真っ直ぐに覗き込む。首を傾げたお陰で髪がそっと頬を擽って、何とも、悪役めいた顔だ。舞台に生きる奴って言うのは、みんなこんな風になるのかなと確証のないことを思う。 「なんかって何?」 「ジュースとか」 「足りない」 ばっさりと切り捨てられてしまって、ふむ、と思わず呟いた。顎に手を当てて考え込む。 がこう言う請求をして来る時、既に彼女の中では何が欲しいか決まっているから。俺の使命は、物事を提案するのではなく、目の前の女の内心を読むことだ。 最近のメールのやり取りとか、日常会話とかを順々に並べて考えて行く。あんまり長い間悩み過ぎても、それはそれでこの短気な女は機嫌を損ねるから、ざっと脳内の情報を走査した後、の鼻先で人差し指を一本立てた。 「帰りにケーキセット。こないだ、駅ビルの喫茶店気になるって言ってたよな」 「ハズレ」 残念でした、とは笑う。 俺が身を乗り出したせいで自然と近付いていたようで、顔同士の距離を離せと言う代わり、額に痛烈なデコピンを一発食らった。 「私、映画見たいのよね。しばらく映画館行ってないし」 ちょうど昨日公開した奴、と、はハリウッド映画のタイトルを口にする。テレビでもCMが流れっぱなしの奴だ。主演の俳優とあらすじを聞けば、成る程俺も嫌いな訳でもなさそうで、納得に頷く。 「分かったよ、奢る。今日は何時に空く?」 「宍戸は部活行くの?」 「おう、だから、――そうだな、六時までは待ってて貰わなきゃならねぇけど。一回家帰っても良いぜ」 「私も練習してくから、それじゃ、六時過ぎに校門で」 忘れるなよ、とからかい混じりで言いながらプリントを渡したら、あんたが言うな、って、は毒吐きながら受け取った。筆箱からシャーペンを取り出して、それじゃ勉強会と行こうかってが姿勢を正すから、分からない問題を指差す。 これはね、って言いながらが耳に髪を掛けた瞬間、その肩からひょこりと金色の頭が覗くのが、俺の位置からだとよく見えた。 は、何事も無いかのように、まずは計算の順番を守ること、って、小学生に言い含めるみたいに話して行く。放課後に再テストで残されるのは勘弁だ、神妙に頷きながら聞いていたら、このままじゃも俺も自分のことを無視してしまうだろうって気配を機敏に感じ取ったかどうか、の首に腕を回して抱きついていたジローが口を開いた。 「何、宍戸とちゃん、デートの相談してたー……?」 「芥川くん、忍足くんが漫画返せってさ」 「うえ、何か借りてたっけ」 「あれじゃねぇの、少女漫画にも面白いもんはあるんやー、とか言って押し付けてた」 「あー……読んでねぇや」 最初はカッコ、次は乗除、最後に加減。 漢字で言われてもピンと来ない俺の顔を読み取ったらしい、対面に座る俺に見えやすいよう逆向けに、はプリントの端っこに番号付きで書き付けた。()、×÷、+−。古い基本事項も、が真面目に言う限り俺の失敗に関係があるんだろう、そんなの分かってるって言わずに謹んで受け取ることにする。こいつが他人に数学を教えるのが得意になったのは、不名誉なことに俺のお陰だと思う。 「ちゃん、俺にも教えてー……」 「睡眠学習してなさい」 かくん、かくん、首が据わらない赤ん坊みたいに、の肩に頭を埋めるので。完全に寝息を立て始めたジローの頭をがぽんぽんと撫でてやっていたら、隣の席にやって来た女子が、相変わらずだねって笑った。 とにかく、と、俺、宍戸亮の関係は、時と場所を選ばずにいつでもこんな感じだって、分かってくれたらそれでオーケーだ。 (痣だったところはもう痛くない) 2013/08/16 前橋 |